伊達宗高とは?村田の人々に愛された名君
伊達宗高の生涯を調べ紐解くと、あの若さで村田を中心に、現在の柴田郡〜刈田郡の伊達家領土を収めており、その後領民より崇め奉られた彼の行動が『蔵王山刈田岳』の噴火を治めた事です。
数年に及ぶ噴火噴石降灰により荒れ果てた田畑からは作物が獲れず、領民は飢饉に瀕してました。
父・政宗の命により明国の祈祷師『王翼』と共に、蔵王山へ向かう事になる宗高。
青竹に息を吹き込み自らの命と引き換えに祈りつづけ、7日後には噴火を鎮めたと言う史実が今もなお残っております。
その後、政宗、兄である二代藩主忠宗と共に上洛した宗高。
朝廷より従五位下右衛門大尉という官位を頂戴し、貴族となります。
がしかし、当時の不治の流行病『疱瘡』に罹り、この世に相当な悔いを残し19歳の若さで荼毘に付されました。
その亡骸には10名の殉死を伴ったと言われております。
菩提寺である龍島院には今でもその痕跡が残ります。
約400年ほど前、実際にあった柴田刈田両郡の史実を如実に再現した『伊達宗高外伝』を1人でも多くの方に知っていただきたいと思っております。
(構成:劇団楓 新川恵叶)
伊達宗高(だて むねたか)
宗高は、慶長 12 年(1607)、仙台藩主・伊達政宗公の七男として仙台で生まれ、幼名を長松丸(ちょうまつまる)と称しました。
母は柴田家第一代常弘の姉、阿山方(おやまのかた)です。
慶長 18 年(1613)に数え七歳で村田城主となり、柴田・刈田両郡で三万石を領有しました。(村田城の土地と建物は、明治維新に伴い民間へ払い下げられ、これらの建物の中で現存するのは願勝寺へ移築された大手門のみです。)
元年 9 年(1623)の冬、刈田岳が噴火し、すさまじい鳴動や爆音とともに火煙を吐き、火山灰や小石を四方に降らし、家畜が死傷し、人々の泣き叫ぶ声は絶えず田畑も降灰のため埋まりました。
この噴火は翌寛永元年になっても止まず、民心の不安と恐れは募るばかりでした。
藩主伊達政宗公は、明国の帰化人・王翼(おうよく)に刈田岳の噴火による人々の苦しみを告げそれを鎮めるよう命じ、宗高は藩主の名代として寛永元年 10 月 5 日王翼とともに刈田岳に登り、祭壇を設けて祈祷しました。
その折に、節ふしのついた青竹の中に宗高は息を吹きこみ、そこにそれを埋めたのでした。この息はその人の命を意味するものであったそうです。
宗高は噴煙にむせび、灰や石を身に受けながら「この身は、どうなってもかまわない、どうか噴火をやめさせ、万民の苦
しみを除かせ給え」と、一心に祈祷を捧げたのでした。
天は、この真心に感じたのか祈祷が終わるや不思議にも噴煙鳴動が次第に鎮まり、遂には全く止んだのでした。人々の喜びは、何にもたとえようがなかったそうです。
その頃の武士には、農民の生命・財産・名誉などを無視する者がいる中、領民を救うというこの宗高の行為は尊いものであり、崇められるべき事でありました。
村田の多くの人々が、永くこの若い領主を敬慕したのももっともなことです。
寛永3年(1626)4 月、兄の忠宗と共に江戸に上り大御所・徳川秀忠公と将軍・徳川家光公に拝謁。6 月には、父・政宗
公にともなられて上洛し、朝廷から「従五位下・右衛門太夫」という官位を授けられました。
不幸にも 8 月に天然痘に罹り同月 17 日に宿所の京都二条要法寺にて二十歳の若さで客死しました。
同年 9 月葬儀が行われ、宗高の御遺体は龍島院に葬られました。領内の人々は肉親を失ったように悲しんだといわれています。
宗高が命願したといわれる蔵王山頂に、昭和 42 年に命願碑が建てられてから今年で 57 年となります。
家系・人物相関図
燃虎座限定公演『伊達宗高 外伝』制作秘話
昨年10月7日。
まだ暑さが残る村田町で、劇団楓と夕食を共にしながら地方創生を語り合ってた中、村田の歴史的人物である伊達宗高を題材にした狂言を作ろうとしたのが、この伊達宗高外伝の始まりです。
何も情報がない中、一般社団法人村田町観光物産協会の櫻中様の伝で、宗高に詳しい村田町歴史みらい館館長の石黒伸一朗先生と打合せ出来る事となりました。
ウェキペディアで伊達宗高を検索してみると、この狂言構成の始まりの日が彼の没日10月7日(旧暦)で、鳥肌が立ったのを覚えています。
『伊達宗高 外伝』公演のギャラリー
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限定公演『伊達宗高 外伝』の観覧は大衆演舞場 燃虎座にて、公演スケジュールやチケット販売はこちら。
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